僕がドラゴンアッシュを知ったのは、ノストラダムスの大予言で有名な1999年のことでした。「俺は東京生まれ HIP HOP育ち」というフレーズで知られる、GRATEFUL DAYSという曲が雀荘の有線で流れた時、新しい時代のドアが開いたように感じました。 ここに綴る歓びと感謝 共に奏でる真の理解者つつみ隠さず時代を描写 PRESSUREはねのけて乱反射注ぎ込もう溢れ出す感情 いつの日にも絶やさない愛情ひるむことなく飛び込む戦場 枯れることなく咲く百合の紋章 これがライムっていうのか、と感動したことを思い出します。「シャ」と「ショウ」で韻を踏むことで、グルーブ感を出してるんですね。I LOVE HIPHOPとか、LET YOURSELF GO,LET MYSELF GOとか、当時の降谷建志は世界で一番輝いていました。甲本ヒロト以来のロックスターが誕生したように思いました。 あれから24年。 降谷建志改めkjが、キャバクラ嬢と不倫した挙句にMEGUMIに捨てられるなんて・・! 太陽のように輝いていたあの降谷建志が、ひるむことなくキャバクラに飛び込んで、真の理解者への愛情を絶やして、JOHへの溢れ出す感情をライムにしていたのかと思うと、何とも言えない気持ちになります。 それでも、日はまた昇り繰り返すし、LIFE GOES ONです。あの頃の降谷建志が戻ってきますように。三瓶でした。 https://www.youtube.com/watch?v=zSYP29oFBk0&pp=ygUb44Kw44Os44Kk44OI44OV44Or44OH44Kk44K6
メキシコで発見された宇宙人のミイラが話題になっています。日本にもカッパのミイラとかありますよね。カッパはいかにもインチキっぽかったですが、今回の宇宙人はどうなんでしょうか。 個人的には、宇宙人は必ずいる、と思ってます。僕が地球に生まれた宇宙人だから、他の星で生まれた宇宙人もいるんじゃないかな、と考えているわけです。そこの宇宙人も、他の星に宇宙人がいるか議論しているかもしれません そんな話はさておいても、宇宙のことを考えるのは、精神的にいいことだと思います。 例えば、悲しいことがあった時。何で自分ばかりこんな目に合うんだろう、もしかしたら自分のどこかに問題があるんじゃないか、そもそも生まれてきたことが間違っていたんじゃないか・・。どんどん悲観的に考えてしまう人もいると思います。 そんな時は、夜の空を見上げてみることをお勧めします。夜の空には無数の星が輝いていて、宇宙人から見たら地球もあの星たちと同じくらい小さい光なんだろうな、と思うと、悩んでいることがどうでもよく感じられてきます。遠くを眺めるので、目にもいいです。 最近、老眼が入ってきたような気がする三瓶でした。
https://youtu.be/iuu96spZaDA?si=nSHcxLUA2L4yQbm-
こないだの日曜日、飲み会の幹事をやったんです。飲み会と言っても四人だけなので、本来ならそこまで気を使う必要はないのですが、結構グルメな人達が集まる回なんです。
個人的にはビールが一杯300円くらいの、競馬新聞を読んでいるおじさんがいるような居酒屋が好きなのですが、今回はそういうわけにはいきません。何となくリサーチしたところ
①学生が来るような、賑やかなお店ではない方がいい
②多少高くてもいいから、美味しいお店がいい
③ちょっと渋い感じのお店だと、みんなが喜ぶかも
とのことでした。
安くて美味しいと評判の居酒屋みかめに行けばいいのですが、母の前だと僕は借りてきた猫のように大人しくなってしまいます。
妻が学生の時にアルバイトしていた船橋の居酒屋さんが美味しくていいかなー、と思ったのですが、日曜日がお休みでした。
色々と検索して、最終的にイワシが美味しいと評判の居酒屋さんにしたのですが。
Oさん「三瓶さん、実は僕、光り物が苦手なんですよ」
三瓶「・・!」
光り物が苦手な人をイワシ専門店に招待してしまうなんて。完全に盲点でした。
そもそも、何かに特化したお店は飲み会に合わないのかもしれません。馬刺し専門店とか。豆腐専門店とか。
幹事の道は奥が深い。なめろうを食べながら、しみじみと思った三瓶でした。
最近のちいかわは、ずっと島で討伐をしています。連載物のギャグマンガはどうしてもバトルマンガになりがちですが、まさか、ちいかわまでそうなってしまうとは。
まさかこれって・・
ネタ切れ・・ってコト!?
とっても大きなお世話ではあるのですが、コミックスを全巻買っている僕としては、元の日常ほのぼの系のギャグマンガに戻ってほしいわけです。作者が働きすぎなんだと思います。
ジャングルの王者ターちゃんが普通のサイズの単行本になって、バトルマンガになってしまったのは小学校高学年の頃でしょうか。痩せてキレイになったヂェーンを見て、何だか物足りない気持ちになりました。稲中の作者もシリアスなマンガを書くようになってしまったし、ギャグマンガを書き続けるのは、相当にタフな作業なようです。
そう考えると、植田まさしは相当なギャグマシーンだと思います。僕は新聞を読まないので、コボちゃんを喫茶店とかで読む程度なのですが、今読んでもめちゃくちゃ面白いです。喫茶店に置いてあるほとんどのコボちゃんには、誰かがコーヒーを吹き出した跡が付いています。
最近はこれ描いて死ねというマンガを読んでいる、三瓶でした。
小学生の時、夏になると父は波崎の叔母さんの家へ連れて行ってくれました。海で地引網に参加したり、メロンの皮でカブトムシを捕まえたり、楽しい思い出ばかりなのですが、一つだけ心配なことがありました。 叔母さんの家に行くと、何故か必ずおねしょをしてしまうんです。 夜になると叔母さんが心配そうな顔をして、将光用のだから、と、おねしょをしてもいいブラケットを用意してくれました。今年は大丈夫なのに、と心の中で思いつつ、朝になると、やっぱり叔母さんは正しかったな・・となるわけです。実家では毎晩おねしょするわけではないのに、波崎へ行くと必ずしてしまう。心理学的な何かが、波崎の叔母さんの家にはあったのかもしれません。 昭和16年に、六人兄弟の末っ子として生まれた父のお世話は、9歳年上の叔母さんが任されていたそうです。叔母さんの前では、父はいつもよりかしこまって話をしていたように見えました。おねしょをしてしまった朝は、僕もいつもよりかしこっていたと思います。 そんな叔母さんが、先日、91歳で亡くなりました。 とても穏やかな話し方をする人で、怒られたことは一度もなかったです。将光は一生おねしょが治らないのかしら、と言われた時は怖かったですが。あの落ち着いた雰囲気は、十代半ばで終戦を経験したことによるのかもしれません。 東京の砂町で暮らしていた三瓶一家は、空襲に備えて千葉の勝山に疎開したのですが、父とおばあさんは、どういう理由か砂町に残ったそうです。 東京で空襲があった知らせを聞いた五歳上の叔父さんは、おただちゃん(←父のこと)とお母ちゃんは戦争で死んでしまった、と思ったらしく、終戦後、一年経ってから勝山へやって来た二人を見て、幽霊が出たのかと思ったそうです。父が生きていなかったら、当然に僕もいないわけで、なかなか感慨深い話でした。叔母さんにも、もっと色々な話を聞いておけばよかったです。 生前の叔母さんと最後に会ったのは、ペンキ屋になってから数年経った頃でした。波崎の自宅まで迎えに行って、銚子でお寿司でも食べようという話になったのですが、叔母さんは回転寿司でいい、と言って、銚子のくら寿司かはま寿司へ行きました。地元の美味しいお寿司を食べるつもりだったので、少しガッカリしましたが、父と僕に気を使ってくれたんだと思います。あまり贅沢を好まない人だったのかもしれません。 小学校を卒業した時、友達のN君と叔母さんの家へ泊まりに行きました。子供だけで旅行するのは初めてだったので、今でもよく覚えています。行きの電車、ゲームボーイにケーブルをつないで、ファミスタをやりながら銚子駅へ向かいました。三女のFちゃんが駅まで迎えに来てくれて、N君は少し恥ずかしそうにしてました。 縁側の周りにはアリジゴクの巣がたくさんあって、二人でアリが巣に落ちるのを待っていたのですが、残念ながら決定的シーンを目撃することはありませんでした。アリも学習してるんだな、とN君が言ってました。 その後、スタンドバイミーごっことか言って線路沿いを歩いてみたり、夜遅くまでファミスタをやったりして、波崎への旅行は、少年の日の思い出として、今でも僕の心に残っています。寝る前にちゃんとトイレに行くのよ、と言われた時は、余計なこと言わないで、と思いましたが、おかげで恥をかかずにすみました。 火葬する前、叔母さんの家にはたくさんの子供たちが集まっていました。娘三人、孫八人、ひ孫十人。サンデーサイレンスばりの大血脈です。叔母さんから始まって、一人ずつにそれぞれの人生があって、それがまた続いていくんだな、とか思っていたら、目からおしっこが出てきそうになりました。 穏やかな寝顔を見ていたら、色々なことを思い出しました。おねしょは最近してません。安心してお休みください。将光でした。 https://youtu.be/G60GEzInQ8o
この一週間ばかり、一人暮らしをしています。妻が愛想を尽かせてついに出て行ってしまった・・わけではなく、実家の秋田へと旅行に行っているのです。
35歳まで一人暮らしをしていたので、一人で過ごす時間には慣れているはずなのですが、何だか、とってもさびしいです。食事もついつい適当になってしまうので、体調も悪くなってきたような気もします。
こういう状態を、咳をしても一人、とか詠むのでしょうか。
咳をしても一人は、種田山頭火の俳句だと思っていたのですが、尾崎放哉という人の俳句なんですね。分け入っても分け入っても青い山、が種田山頭火の俳句のようです。
そもそも、七七五でも俳句というのでしょうか。咳をしても一人に至っては、三三三です。
ブルースからロックンロールが生まれたような、プログレッシブロックを否定するためにパンクが生まれたような、そんなダイナミズムを感じるような気がします・・!
早く帰ってこないかなー。三瓶でした。
大工のHさんは、若い頃は「セミ」と呼ばれていたそうです。ハシゴに登って外壁の作業をガンガンしていたからだそうで、職人さんとしてはなかなかにカッコいい通り名だと思います。父も、若い頃はよくハシゴでペンキを塗っていたそうで、今のペンキ屋は足場があるから幸せだ、と言っています。令和五年の今日、ハシゴで作業をしている職人さんを見る機会はほとんどありません。世の中はすっかり変わりました。ヘルメットを被って、安全帯を付けて、夏は空調服を着ないと入れない現場もあるそうです。トルエンが手に入りやすいからペンキ屋になった、みたいなエピソードを持つ職人さんは昭和と共にいなくなり、今の職人さんはトルエンどころかタバコも吸いません。大人しくて真面目なことだけが取り柄の僕としては、もちろん今の方がいいのですが、あの頃の豪放磊落な雰囲気を懐かしく感じる気持ちもあります。トルエンはダメですけど。
https://youtu.be/5q2xypgPm3k
最近、同級生からの塗替えの依頼が続きます。小学校の同級生の実家、中学校の同級生。地元で仕事ができるって、とっても有難いことです。37年ぶりに、K君の実家に上がらせてもらいました。何だか、とても懐かしい気持ちです。あそこの部屋でファミスタやったなー、とか。お孫さんの書初めが飾ってあって、そういえばK君も習字が上手かったなー、とか。小学校三年生の頃の記憶が、案外と残っていることに我ながら驚きました。僕が生まれたのは咲が丘という地域で、八木ケ谷・高野台と合わせて、船橋市北西部という括りになるそうです。引っ越しをすることはなく、八木ケ谷幼稚園・八木ケ谷小学校・八木ケ谷中学校と過ごしてきました。八木ケ谷高校があればそこへ行っていたのですが、残念ながら、八木高はなかったんです。「かめちゃん、近所ですごく評判良いのよ」とK君のお母さんに言われて、嬉しいような、あの日に帰りたいような、ちょっぴりセンチメンタルな気分になりました。褒めてもらえるように、頑張ろうと思います。三瓶でしたー。
https://www.youtube.com/watch?v=fFAASvDHzUs&pp=ygUS5Zyw5YWD44Gu44OA44Oz44OK
月末の事務仕事を終えると、もはや夕方でした。
今月もよく頑張ったね、将光。自分を労わるべく、ヤオコー船橋三咲店へビールを買いに行くと、屋上から見る西の空がとても綺麗でした。
ああ、まるでL75-50Hのような雲に、L17-70P からL17-70PLへとグラデーションしていくかのような夕焼け!
あまりの美しさに、その場からしばらく動けなくなってしまいました。そのままビールを飲んじゃおうかと思いましたが、飲酒運転になってしまうので我慢しました。
夏は、一年で一番色がハッキリとしてい時期かもしれません。こないだ行った江の島では、L69-70Pのようなどこまでも広がるような海に、L42-50Lが生命力を輝かせていました。
夏は、日本塗料工業会のカタログのように、色彩に溢れています。色彩は生命力であり、喜びです。ああ、素晴らしき生命賛歌よ!
・・ちょっとテンションがおかしいですね。熱中症の初期症状かもしれません。
ちなみに、日本塗料工業会のカタログはこれです。なんと、654色もあるんです。世界中の色がここにある、わけではないのですが、すごい色の数です。
明日から八月です。皆様も熱中症に気をつけてください。三瓶でした!
塗替えのチラシを、地域新聞に折り込みました。
今回は、前回のヌリスギ君に代わって、ジジちゃんに再登場してもらいました。というのも、前回のチラシのリアクションがあまりにも薄かったので、妻に相談したところ、ヌリスギ君がちょっとアレなんじゃないか、と言われたからなのです。
やる気満々な感じでいいと思うのですが、目が怖い、とのことでした。思わず塗っちゃうヌリスギ君、みたいな感じで流行ったらどうしよう、とか思っていたのですが・・。
やっぱり、ジジちゃんの方がかわいいですね!
たった一回で交代するのは少し残念な気がしますが、早めの継投も大切だと落合監督が言っていました。今回こそ、良いリアクションがありますように!