思い出のブラケット
小学生の時、夏になると父は波崎の叔母さんの家へ連れて行ってくれました。海で地引網に参加したり、メロンの皮でカブトムシを捕まえたり、楽しい思い出ばかりなのですが、一つだけ心配なことがありました。
叔母さんの家に行くと、何故か必ずおねしょをしてしまうんです。
夜になると叔母さんが心配そうな顔をして、将光用のだから、と、おねしょをしてもいいブラケットを用意してくれました。今年は大丈夫なのに、と心の中で思いつつ、朝になると、やっぱり叔母さんは正しかったな・・となるわけです。実家では毎晩おねしょするわけではないのに、波崎へ行くと必ずしてしまう。心理学的な何かが、波崎の叔母さんの家にはあったのかもしれません。
昭和16年に、六人兄弟の末っ子として生まれた父のお世話は、9歳年上の叔母さんが任されていたそうです。叔母さんの前では、父はいつもよりかしこまって話をしていたように見えました。おねしょをしてしまった朝は、僕もいつもよりかしこっていたと思います。
そんな叔母さんが、先日、91歳で亡くなりました。
とても穏やかな話し方をする人で、怒られたことは一度もなかったです。将光は一生おねしょが治らないのかしら、と言われた時は怖かったですが。あの落ち着いた雰囲気は、十代半ばで終戦を経験したことによるのかもしれません。
東京の砂町で暮らしていた三瓶一家は、空襲に備えて千葉の勝山に疎開したのですが、父とおばあさんは、どういう理由か砂町に残ったそうです。
東京で空襲があった知らせを聞いた五歳上の叔父さんは、おただちゃん(←父のこと)とお母ちゃんは戦争で死んでしまった、と思ったらしく、終戦後、一年経ってから勝山へやって来た二人を見て、幽霊が出たのかと思ったそうです。父が生きていなかったら、当然に僕もいないわけで、なかなか感慨深い話でした。叔母さんにも、もっと色々な話を聞いておけばよかったです。
生前の叔母さんと最後に会ったのは、ペンキ屋になってから数年経った頃でした。波崎の自宅まで迎えに行って、銚子でお寿司でも食べようという話になったのですが、叔母さんは回転寿司でいい、と言って、銚子のくら寿司かはま寿司へ行きました。地元の美味しいお寿司を食べるつもりだったので、少しガッカリしましたが、父と僕に気を使ってくれたんだと思います。あまり贅沢を好まない人だったのかもしれません。
小学校を卒業した時、友達のN君と叔母さんの家へ泊まりに行きました。子供だけで旅行するのは初めてだったので、今でもよく覚えています。行きの電車、ゲームボーイにケーブルをつないで、ファミスタをやりながら銚子駅へ向かいました。三女のFちゃんが駅まで迎えに来てくれて、N君は少し恥ずかしそうにしてました。
縁側の周りにはアリジゴクの巣がたくさんあって、二人でアリが巣に落ちるのを待っていたのですが、残念ながら決定的シーンを目撃することはありませんでした。アリも学習してるんだな、とN君が言ってました。
その後、スタンドバイミーごっことか言って線路沿いを歩いてみたり、夜遅くまでファミスタをやったりして、波崎への旅行は、少年の日の思い出として、今でも僕の心に残っています。寝る前にちゃんとトイレに行くのよ、と言われた時は、余計なこと言わないで、と思いましたが、おかげで恥をかかずにすみました。
火葬する前、叔母さんの家にはたくさんの子供たちが集まっていました。娘三人、孫八人、ひ孫十人。サンデーサイレンスばりの大血脈です。叔母さんから始まって、一人ずつにそれぞれの人生があって、それがまた続いていくんだな、とか思っていたら、目からおしっこが出てきそうになりました。
穏やかな寝顔を見ていたら、色々なことを思い出しました。おねしょは最近してません。安心してお休みください。将光でした。